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鎌倉七口物語~外界への「窓」は戦略拠点~

「切通し」とは、山や丘などを切りひらいて通した道をいう。三方を山にかこまれた天然の要害鎌倉には、俗に「鎌倉の七切通し」「七口」と呼ばれる切通しがある。鎌倉時代、敵の侵攻から鎌倉を守るうえでの重要な拠点としての役割をはたすとともに、外の世界への”窓“となった。

極楽寺切通し~忍性のひらいた道

極楽寺を開創した忍性がひらいたと伝えられる。忍性は真言律宗の僧。道路や橋をつくったり貧しい人たちを救済するなど社会事業に力をつくした。切通しは、坂ノ下から腰越、片瀬へのびて東海道に通じた。京都と鎌倉をつなぐ大切な道でもあった。義経が平家の大物を捕虜にし、鎌倉へくだったのもこの切通し。新田義貞の鎌倉攻めの際には、義貞軍がここからの侵入を図ったが、幕府軍の防備は固く、新田軍は退けられたと太平記に記されている。現在は左右の樹影の下を舗装路がのびている。

大仏坂切通し~独歩もえがいた道

大仏坂切通し梶原、山崎から藤沢へとのびていた。「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」と、ふるい書物にはある。作家国木田独歩は、明治35年頃のこの切通しの様子を、「大仏坂の切通しは鎌倉の地質にして初めて作り得るといふべきしろもの、左右の絶壁数十間」と『鎌倉の裏山』に描写している。現在も”左右の絶壁“は当時を偲ばせるように残っている。

化粧坂~首実検の地?

化粧坂海蔵寺の手前から山に入り、葛原岡へとつづく道。その名の由来には、平家の武将の首を化粧して実検した場所だからなどの説がある。新田義貞は鎌倉攻めにあたり、三手にわけた軍勢のうちのひとつをここに差しむけ幕府軍をやぶった。坂の上一帯には源頼朝公の座像のある葛原岡公園、日野俊基を祀る葛原岡神社がある。

亀ケ谷坂~カメもひっくりかえった!?

扇ケ谷と山ノ内をむすぶとともに、化粧坂同様、武蔵方面へ通じる。吾妻鏡は、仁治元年(1240年)、3代執権北条泰時が悪路だった山ノ内道を整備したと伝えている。この坂をのぼろうとするカメは、あまりの傾斜に途中、みな、ひっくりかえったため亀返坂とも呼ばれたといわれる。

朝比奈切通し~鎌倉の生命線

朝比奈切通し鎌倉と六浦をむすぶ。六浦は現在の横浜市金沢区。鎌倉時代には安房や上総など各地の物資の集散地として、また、交通、戦略上の大切な拠点として鎌倉の”生命線“だった。朝比奈切通しは鎌倉と六浦の境界となった。鎌倉幕府初代の侍所トップ和田義盛の子朝比奈義秀がひと晩でひらいたという伝説もある。鎌倉七口でもっともかつての雰囲気を伝えているといわれる。

巨福呂(小袋)坂~犠牲者の供養塔も

鶴岡八幡宮の裏参道のあたりから西の方角へ向かう道が旧来の巨福呂坂。やはり北条泰時が建長2年(1250年)に整備したとされる。いにしえの面影をしのぶ12基の庚申塔や道祖神などならび、その記録から江戸時代の末期に改修工事が行われたこともわかる。なかには工事中の事故で不幸にもいのちを落とした人びとを供養する道造供養塔もある。

名越切通し~日本武尊も通った?

名越切通し鎌倉から三浦へ通じる。名越トンネルの上に、かつての切通しの面影はのこっている。道筋は、日本武尊が東夷を制圧する際に通った古東海道筋ではないかともされる。文献のうえではじめて「名越坂」の文字が確認されるのは『吾妻鏡』の天福元年(1233年)8月18日のくだりだ。かつては鎌倉と三浦の境界をなした切通しは、いま鎌倉市と逗子市の境になっている。

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