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鎌倉の歴史

鎌倉の歴史〜日本初の武家政権誕生の地 観光客2千万人の歴史と文化の町に〜

鎌倉の歴史はふるい。たとえば、葛原ケ岡からは早期縄文土器が発掘され、鶴岡八幡宮境内などからは弥生時代の土器も見つかっている。正倉院には西暦735年にあたる年号の入った、「鎌倉郷」の文字の読める「交易帳」が収蔵されている。しかし、一般的に、「鎌倉」といえば、まず源頼朝や北条政子を連想してしまう。

最盛期には人口3万人?

鎌倉と源氏の関係は、頼朝の祖父、源為義の代まで4代(頼信、頼義、義家、為義)にわたり、相模守をつとめたことに由来する。頼義は京都・石清水八幡宮を勧請(神仏の分身、分霊を祀ること)して元八幡を大町につくり、息子の義家は元八幡を修理した。為義の子、義朝(頼朝の父)は寿福寺の周辺に屋敷を所有したという。

治承4年(1180年)、伊豆で反平氏の軍を挙げた頼朝を討つため京からやってきた平家軍を富士川の戦いで破った頼朝は、その足で鎌倉幕府の置かれる大蔵(雪ノ下)にできた屋敷に入った。こうして鎌倉は、日本で初めて誕生した武家政権の政治の中心地として歩みはじめる。

由比若宮(元八幡)の画像
由比若宮(元八幡)

大蔵幕府跡の画像
大蔵幕府跡

頼朝はまず元八幡を現在の鶴岡八幡宮の地に移して町づくりの中心にした。御家人(将軍の直属の武士)を監督する侍所、行政を担当する政所、裁判所の役割をはたす門注所をもうけ、政治体制を整えていった。また、弟の義経らを討って権力の強化をはかった。永福寺など大伽藍も建設した。しかし、源氏の世は長くはつづかなかった。頼朝の死後は御家人の権力闘争がくりひろげられ、鎌倉は血を血で洗うドラマの舞台になった。結局、政子の実家、北条氏が実権をにぎった。北条氏のもとで鎌倉は繁栄し、最盛期には3万人もの人口を数えたといわれる。

江戸中期から"観光地化"

しかし、元弘3年(1333年)、幕府は新田義貞により滅ぼされた。力のある武士の間で権力をめぐって戦いがつづき、足利尊氏が京都に室町幕府を開いた。鎌倉には東国10か国を支配する鎌倉府が置かれ、それなりの賑わいは保たれた。ところが、幕府と鎌倉府が対立。康正元年(1455年)、戦いに敗れた鎌倉府のリーダー、足利成氏は下総国古河に逃げ、鎌倉は急速に活気をなくし、農業と漁業の村になってしまう。江戸時代に入ると社寺は復興していく。また、17世紀後半、徳川光圀が「新編鎌倉誌」を編んだこともあり、江の島など景勝地の見物と結びついて、史跡めぐりを楽しむ江戸の町人も増えていった。江戸時代の後半には鎌倉図絵なども多く出回るようになる鎌倉の"観光地化"はすでにはじまっていた。

横須賀線の画像

明治22年(1889年)、横須賀線が開通した。温暖な気候と美しい風景。保養地、別荘地として、文化人のあつまる町として鎌倉はあらたに脚光を浴びることになる。関東大震災では大きな被害をうけたものの、東京から電車で1時間ほどの鎌倉は、1千年の歴史と文化、自然、そして、時代を先取りした新しいセンスを味わわせてくれる古都として、年間2千万人もの来訪者で賑わっている。

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