第61回鎌倉まつり「流鏑馬」
鎌倉まつり最終日を飾る「流鏑馬」。
武者姿の射手が、疾走する馬上から三つの的を射抜く鎌倉時代からの伝統武芸は圧巻で、勇壮な演武は公益社団法人大日本弓馬会・武田流により披露されます。
また、鎌倉まつり「流鏑馬」では、被災地復興支援として、販売したリストバンド(購入者は席にて流鏑馬観覧ができる)の売上金の一部の寄付を行ったり、市内の学生を招待し、射手の方との交流を持つことができる「ふれあいタイム」を設け、子供たちが日本を代表する伝統行事に触れていただけるような取り組みなども行っています。
流鏑馬の語源は、「矢馳せ馬(やばせめ)」が転じたものといわれ、その字句も「馬に乗って鏑矢を射流す」に由来するといわれています。
6世紀、欽明天皇の時代、宇佐八幡宮(大分県)に神功皇后、応神天皇をお祀りし「天下泰平 五穀豊穣」を祈願して、三つの的を馬上から射させられたことが始まりとされています。
この射術と馬術との結びつきは騎射と呼ばれ、流鏑馬の射手は武芸の誇りとそれに見合う命懸けの覚悟を伴うものでした。
平安時代、五十九代宇多天皇は「弓馬の礼法」を制定させ、源氏が代々相伝することとなり、源義家の弟・新羅三郎義光の子孫である武田・小笠原両家に伝えられました。
武田家は鎌倉時代から室町時代にかけて武門を誇り、甲斐・安芸・若狭を治めました。江戸期には武田家嫡流として「流鏑馬射法」を伝えた武田信直が弓馬礼法を細川家に伝え、直弟子で家臣の竹原氏が継承しました。
鎌倉の流鏑馬は、竹原氏に託された弓馬軍礼故実武田流の継承を明治期に細川護久候から命じられた井上平太氏が金子有鄰氏に相伝したものです。
『吾妻鏡』のくだりでは、平家に勝利した源頼朝は、源氏の氏神である八幡宮の親善にかねてから関心の深かった流鏑馬を奉納するため、その故事をいろいろと調べ、もとは宮廷武士で弓馬の達人でもあった歌人・西行法師にも流鏑馬神事について尋ねています。
こうして頼朝が文治3年(1187年)8月15日に武田信義、小笠原遠光を権見役として、鶴岡八幡宮の放生会に奉納した流鏑馬が鎌倉の流鏑馬神事の始まりです。
諏訪盛澄は捕らわれの身で悪馬を与えられながらも、頼朝の面前で全的的中させて御家人に引き立てられ、熊谷直美は流鏑馬の的立役を嫌い、頼朝を困らせました。さらに武田信光をはじめ弓馬に優れた御家人18名を頼朝が集めて流鏑馬故実を談じさせた逸話も伝わっています。
頼朝が奨励し武士たちが励んだ流鏑馬は、その技量とともに質実剛健な鎌倉武士の士風を保つために、武家社会に欠くべからざる高度な神事として続けられたのです。
情報提供:公益社団法人大日本弓馬会